観光における本物(リアル)とニセモノ(フェイク)

今回は 片岡 が担当をば。

先日、旧友の大学教授のお誘いで「京都観光アカデミックアソシエイション シンポジウム」に参加してきた。
https://k2a2sympo2019.peatix.com/?lang=ja

今回のテーマは「観光における本物(リアル)と偽物(フェイク)」

基調講演もパネルディスカッションも大変興味深いお話で改めて多くの学びを得られた。観光という経済事業をあらゆる分野の学術研究者のそれぞれの切り口から語られる。大変刺激に満ちた時間だった。

ホンモノになれば、そのレベルが高くなればなるほどそこに付加される情報は減るのだそうだ。例えば食事であれば、客はその味と盛り付けと店の雰囲気を自らの五感をフル動員して感じ取ってもらいたい。過剰な情報提供は実態と乖離した期待と予見をもたらし、店主と客の関係性が規定されてしまう。むしろ情報は、お客様の五感にその体験を通じて提供する。そう考えるからこそ高級寿司店の大将は常に不機嫌な顔をしているのだとか。つまり客に媚びないということ。なるほど面白い視点。

そして観光におけるリアルとフェイクについて・・・

観光客を招致するためには広く多くの情報が流される。モノの情報、コトの情報。インターネットの普及により(この言葉自体が古すぎるが)情報の流通量は極めて煩雑で多い。そして観光客はこの情報を集めて旅のプランを練っている。情報が多ければ多いほど、それを見せるビジネスも広がる。ますますそれらしいものを。
しかし、よくよく考えてみるとこれはすでに「それっぽいもの」であって「そのもの」ではないのではないだろうか。例えば、京都祇園の街に広がる光景は、私の学生時代の30数年間前のそれとはすっかり違っている。インバウンド、即ち海外からの来訪者の観光客誘致のために作られた豪勢な「フェイク」。つまり壮大なセットだ。リアリティに満ちていても実態はフェイクなのかも知れない。そこには全く悪意などなくもてなす心からの「フェイク」。
「本当の京都」と言って、京都の普通の街中や生活の場に観光客が訪れても決して楽しくはないだろう。さらに受け入れる側の受け皿のないところに観光客が大量に押し寄せても、地元の抵抗感が増すだろう。「観光公害」という近年深刻さを増す問題、来訪者と住民の感覚のズレはこういうところに起因している。

リアルをリアルなものとして見て体感するとき、そこには、感動と失望の両面がもたらされる。ツーリストとしての感動と、旅行客としての退屈さ。分りやすく言えば、マジックをライブで見る感動と、タネあかしばかり見せられる失望。

リアルなものを上手くフェイクとして提供されたものは、そこには楽しさがある。楽しませるためのいわばおもてなし。

フェイクなものをリアルだと提示されると、なんだか不快になる。

フェイクをフェイクだとあっけらかんと見せられると、これはいわゆる「ノリ」とか「ジョーク」のような笑いがある。

説明的であるがゆえのフェイクはグラデーション。リアルを絶妙に加工されるフェイクをどう心の整理に繋げるのか。そこが観光誘致のキモとなるところだそうだ。
太秦映画村や各地の忍者村、ハウステンボスやスペイン村、ドイツ村。。そういうところを思い起こせばこのグラデーションもなんとなくわかる気がしてくる。

その地域の流動人口つまり来訪者を増やそうという様々な企画が模索されている。そのまちの「ステキ」の実感は、地域住民と来訪者では当然に違う。

色々考えるヒントになるシンポジウムだった。
末筆ながら。 そうだ京都、行こう。。。