地方における働き手と市場のバランス

こんにちは、天野です。

Twitterでこんな呟きを発見。

首都圏の通勤は本当にしんどいだろうと思います。比較してましな方の大阪でも割と朝はしんどい…。一度でも経験のある人は考えてしまうんでしょうね、こういうことを。

「機会があれば福岡に住んでみたい」とおっしゃっているということは、仕事があれば地方への定住も検討する、ということでしょうか。

止まらない若年女性の流出

さて、地方の人口について。
地方の若手流出は昔から言われていますが、最近では女性の流出の方が顕著に出ています。
若い女性流出、悩む地方 男女比崩れ人口減加速
記事から引用すると

「若年女性が地元に息苦しさを感じている可能性がある」
「地方企業は男性前提の働き方、意識を改める必要がある。同じ能力なら女性を採用してはどうか」

地方は以前から共働きが多いところもありますが、選択肢や決定権に女性たちが入ってこれる土壌ではなく、若い女性が首都圏に流れている姿がイメージできます。女性の採用を積極的にしたり、働き方を変えるというこれらは以前から言われていることですが、簡単ではなさそうです。また、地方で女性が就ける仕事が、安価で将来性が期待できないものが多いということもあるでしょう。

「子育て支援で若年人口を増やした自治体の多くは大都市のベッドタウンだ。地方で対策の成功例を見つけるのは難しい」

つまり、都市圏でもベッドタウン以外では人口は増加していないか、しづらい状況とも考えられます。

これまで生活の主軸として稼いできた男性から、急に女性にも平等に仕事や給料を割り振ることは難しい。しかし、その状態を放置すると、首都圏よりも産業や企業数が少ない地方の若年女性の流出は止まりません。

地方で女性の働き場を増やす

首都圏の一極集中状態が長く続きましたが、その分高齢化への加速度は増しています。地方から見ると若年女性が首都圏へ流出することは加速化しています。働く場として企業が首都圏に集まり続ける限り、この流れは止まりません。

一朝一夕で解決しませんが、働く場として地方の企業数増加、起業が進むことが急がば回れなのでしょう。
今すぐできることは、地方で若年女性たちが希望を持てるようにすることかと思います。それは「選択肢」と「決定権」を持つこと。もっと具体的にいうと、意識改革。まだまだ男尊女卑の文化が根強い。

ショックな話ですが、首都圏に住み仕事を持つ女性たちにインタビューしていて、一様に「地方には戻れない」という言葉を聞きます。
早く結婚しろ、なぜ勉強する、なぜ逆らおうとする、という言葉は、彼女たちに呪いのように降り注がれ、それならば結婚も子供も諦めても、誰からも束縛されない都会に出よう、出てよかったというのです。
地方活性に携わるものとしては、とても耳が痛い言葉です。

地方で活性化されている地域を見ると、女性の起業が多い。業種としては小売店やサービス業です。大きな産業とか地域クラスターとは言えないのですが、いきなり大きな産業の勃興を目指すよりも、現実的かもしれません。

人口流入と女性による活性化は、両輪で考えることではないでしょうか。

観光における本物(リアル)とニセモノ(フェイク)

今回は 片岡 が担当をば。

先日、旧友の大学教授のお誘いで「京都観光アカデミックアソシエイション シンポジウム」に参加してきた。
https://k2a2sympo2019.peatix.com/?lang=ja

今回のテーマは「観光における本物(リアル)と偽物(フェイク)」

基調講演もパネルディスカッションも大変興味深いお話で改めて多くの学びを得られた。観光という経済事業をあらゆる分野の学術研究者のそれぞれの切り口から語られる。大変刺激に満ちた時間だった。

ホンモノになれば、そのレベルが高くなればなるほどそこに付加される情報は減るのだそうだ。例えば食事であれば、客はその味と盛り付けと店の雰囲気を自らの五感をフル動員して感じ取ってもらいたい。過剰な情報提供は実態と乖離した期待と予見をもたらし、店主と客の関係性が規定されてしまう。むしろ情報は、お客様の五感にその体験を通じて提供する。そう考えるからこそ高級寿司店の大将は常に不機嫌な顔をしているのだとか。つまり客に媚びないということ。なるほど面白い視点。

そして観光におけるリアルとフェイクについて・・・

観光客を招致するためには広く多くの情報が流される。モノの情報、コトの情報。インターネットの普及により(この言葉自体が古すぎるが)情報の流通量は極めて煩雑で多い。そして観光客はこの情報を集めて旅のプランを練っている。情報が多ければ多いほど、それを見せるビジネスも広がる。ますますそれらしいものを。
しかし、よくよく考えてみるとこれはすでに「それっぽいもの」であって「そのもの」ではないのではないだろうか。例えば、京都祇園の街に広がる光景は、私の学生時代の30数年間前のそれとはすっかり違っている。インバウンド、即ち海外からの来訪者の観光客誘致のために作られた豪勢な「フェイク」。つまり壮大なセットだ。リアリティに満ちていても実態はフェイクなのかも知れない。そこには全く悪意などなくもてなす心からの「フェイク」。
「本当の京都」と言って、京都の普通の街中や生活の場に観光客が訪れても決して楽しくはないだろう。さらに受け入れる側の受け皿のないところに観光客が大量に押し寄せても、地元の抵抗感が増すだろう。「観光公害」という近年深刻さを増す問題、来訪者と住民の感覚のズレはこういうところに起因している。

リアルをリアルなものとして見て体感するとき、そこには、感動と失望の両面がもたらされる。ツーリストとしての感動と、旅行客としての退屈さ。分りやすく言えば、マジックをライブで見る感動と、タネあかしばかり見せられる失望。

リアルなものを上手くフェイクとして提供されたものは、そこには楽しさがある。楽しませるためのいわばおもてなし。

フェイクなものをリアルだと提示されると、なんだか不快になる。

フェイクをフェイクだとあっけらかんと見せられると、これはいわゆる「ノリ」とか「ジョーク」のような笑いがある。

説明的であるがゆえのフェイクはグラデーション。リアルを絶妙に加工されるフェイクをどう心の整理に繋げるのか。そこが観光誘致のキモとなるところだそうだ。
太秦映画村や各地の忍者村、ハウステンボスやスペイン村、ドイツ村。。そういうところを思い起こせばこのグラデーションもなんとなくわかる気がしてくる。

その地域の流動人口つまり来訪者を増やそうという様々な企画が模索されている。そのまちの「ステキ」の実感は、地域住民と来訪者では当然に違う。

色々考えるヒントになるシンポジウムだった。
末筆ながら。 そうだ京都、行こう。。。

地方創生と人口動態の誤謬

地震の復興も儘ならぬ中次々に訪れる台風の惨禍。被災された方、そこに関係者のおられる方々に心よりのお見舞いを申し上げ、1日も早い復旧と安堵できる時間の訪れますことをお祈りいたします。

今回は片岡が担当。

「地域の活性化」や「まちおこし」という地方創生に向けた諸政策。
その柱となるのは人口減少への手立てと観光等による「流入人口」の増加を図ろうとするもの。
背景にあるのは地方財源の問題。
地方行政の財源は、自主財源(地方税)と依存財源(国庫金支出や地方交付税)。国が進める三位一体改革に伴って地方分権を進めるため国税(所得税)から住民税(地方税)への税源移譲が進んでいる。つまり、地方自治体の自主財源への依存が高まっていると言うこと。これもかれこれ10年続く傾向。そして地方行政の主体は市町村。都道府県は市町村が吸い上げるニーズへの中間的な支援構造としての役割。

地方税収の拡充を目指すと自ずとその政策は、地域経済が活性化しその受け皿となる事業者が育つような施策とその地域への「流入人口」の増加策に偏ることになる。

また一方で、観光資源は乏しいが、人口が比較的集中している地方都市中心部の商業エリアの元気がない。そこで市町村は、「まちなか活性化」としてシャッターの目立つ商店街の活性化方法を考えようとし、商店会の総意としてもなんとか補助金を獲得して商店街を盛り立てたい。

しかし商店がシャッターを閉ざしているのは、客が少ないからだけではないのだ。商売の規模も小さくなった商店街で、商店を続けることに希望も抱きにくい。そして、その地を離れる次世代のことを思うに、シャッターの中の店主たちが必ずしも悲壮感に苛まれているわけでもない。

そして財源の乏しい市町村は市町村合併によりより大きな財源の元に集約を進める。そして広がった市域の郊外に巨大な無料駐車スペースを有した大型ショッピングモールが築かれる。この場所には挙って広域から家族連れがやってくる。結果的に言えば、大きな経済効果をもたらすことになる。多くの人が周辺地域からも人が集まることで流入人口からの収入も増えたとも言える。人の流入に乗じようと、ショッピングモール周辺部のまちは、地域風土や歴史的な価値のあるもの、すでに人口が減りすぎた場所では「何もない」ことの体験をウリにした観光的な取り組みを図ろうとする。しかし、車で動く多くの人はショッピングモールの駐車場に車を止めて、モールの外に出てはこない。

自治体が抱える多面的なニーズそれぞれに応えようとしてはいるが、そもそのそのニーズが異なるゆえ、それぞれに矛盾を孕んだ諸施策が打ち出され、その悲喜交々ある結果に至る。

しかし、それは本当に望まれた成果と言えるのだろうか?
地域の住民は本来自分たちの地域の風土が育んできた祭りや環境を切り売りして消耗している。

人口減少の課題に手を打つ手立てを通じてあわよくば人口増加を図ろうと目論む。
人口減少と少子高齢化は全国的な人口動態の問題であり、特定地域における「定住人口」の減少への施策の多くが期待する成果を得られない実情の原因を、各市町村の個別施策の方法論や予算規模に求めるのは適当ではない。高齢者の終の住処をと高齢者世帯の移住促進を計るところもあるが、消費と同時に重くのしかかる介護保健負担、介護事業者の雇用創造、その辺りはゼロサムの追いかけっこで、大きなプラスとも考えにくい。

地域の人々が起こす行動の熱源は、地方財政がどうなるかの問題ではなく、もっと人間に根ざしたものだ。
今一度その熱源の意味を問い直し、望むべき姿を実現することから取り組むのが大切なのだと思う。